続き

興銀を辞めたときに三木谷さんはソフトバンク孫正義TUTAYA増田宗昭から「うちの会社に来ないか」と誘われていたが丁重に断ったそうです。

 

95年の11月に退職し、6畳一間の部屋に「クリムゾングループ」というコンサルティング会社を設立しました。起業してからとても順調ではあったが、いつまでもコンサルティングの仕事を続ける気は三木谷さんにはありませんでした。100のビジネスプランを考え最終的に3つのプランが残りました。地ビール屋、パン屋のフランチャイズ、そしてインターネットビジネスでした。インターネットビジネスを選んだ理由は、これから進歩していくネットワークを使うことは飽きやすい三木谷さん自身ずっと知的な挑戦が続けられるだろうと思ったそうです。

クリムゾングループで稼いだ資金が6000万あったのでそれを資本にエレクトロニック・コマース(電子商取引)で、インターネットショッピングモールをやろうと考えました。

当時この分野は大企業が参入しては撤退するようなあまり、魅力的ではないものでした。

しかし、浩史さんは誰もが否定的だから逆にイケると思ったようです。従来のカタログ的な店ではだめだ、情報や企画がどんどん新しくなり、昔の商店街のようにコミュニケーションが楽しめる人の匂いがするショップを作れば必ず成功する、と。

こうして、97年5月からサービスを開始し、信長の楽市楽座に習い楽天市場とネーミングしました。浩史さんは楽天家である自分自身の性格を振り返り、「オプティマスティック」(楽天的に)という意味も込めて。

 

ここまで読んでプロローグにも書かれていたように三木谷さんには先見の明があるというのもとても納得できました。きっかけは地震で親族を失ったことですが現状に満足せず、上を目指して生きる姿勢はとても見習いたいものだと感じました。

阪神淡路大震災

1995年1月17日阪神淡路大震災がおこりました。浩史さんの両親は無事だったのですが叔父夫婦が亡くなりました。

浩史さんは当時興銀のテレビでニュースを見ていました。東京からすぐに地元神戸に向かい遺体を確認しに公民館へ行ったそうです。そこでたくさんの遺体が並んでいるのを見た瞬間にショック以上の衝撃を受け、人生は有限なんだと思いました。自分は今なにをやっているんだ、後悔しないように生きなくては、興銀を辞めよう、と考えたそうです。

 

浩史さんはいつも重大な決断をするときは父親である良一さんに相談していました。興銀を辞める際も。良一さんは反対したのですが浩史さんの決意は固く、起業することになったそうです。

 

新しい会社の名前を決めるときに横文字の候補がいくつかあったけども「一度見たら忘れない名前だから楽天がいい」と言ったのは良一さんらしいです。

 

辞めると上司に報告したとき、流石の浩史さんもいつもの覇気はなく顔面蒼白だったようです。当時まだまだ優秀な会社であった興銀を辞めると言いだすのは相当な決断だったと思います。普通だったら家族から反対に合うはずですが、浩史さんの周りの人たちは暖かく見守るという判断をしたのも信頼されてる証拠なのだと感じました。

俺が頭取になる頃、この銀行はない

ハーバードでMBAを取得し帰国した三木谷さんは本店の企業金融開発部になりM&Aを担当することになりました。

当時は全くの下火で興銀でも「案件なし」の状況が続いていたにもかかわらず、メディア担当の三木谷と上司の2人だけは稼ぎまくっていたそうです。彼らのクライアントにはソフトバンク孫正義さんなど日本を代表する起業家の面々が名を連ねていました。現在日本のネット企業の中でメインプレイヤーとして世界の最前線で戦っているソフトバンク楽天ですが、この時点で2人が出会っていたのには驚きました。

今でこそソフトバンクは有名ですがこのときは三木谷さん自身もどのようなものかよくわかっていなかったようです。しかし彼らのダイナミックなビジネスには惹かれるものがありました。また三木谷さん自身も独立の決意はしていたけれど興銀に留学の借りを返さなくてはと考えこの頃は働き続けていたみたいです。

2章三木谷浩史が選びとって来た道-日本興業銀行へ-

今週から第2章に入っていきます。99ページから108ページまで読みました。

 

今回は大学卒業後から話が始まります。

浩史さんが卒業したのはバブル絶頂期でした。そして三菱商事住友銀行に内定をもらいます。この頃は多い者で20社以上の内定をもらうツワモノもおり、それでも会社訪問解禁日である10月1日には就職先として決めた会社に行きます。企業側は他の企業に行かさないように一日中学生を拘束するのが普通だったそうです。

浩史さんは金を扱うところなら絶対潰れないというお父さんの勧めで興銀に決めました。

興銀に入行した浩史さんは半年の研修のあと、本店外国為替部に配属されました。外国為替部というのは当時の興銀で目立つ部署ではなく経営や営業の花形とは違い事務の方でした。当時の後輩で三木谷さんと近しい経歴を持つ鈴木敦さんによるとたくさんの優秀な人がいる中で浩史さんは飛び抜けているような人には見えなかったそうです。しかし浩史さんは同期一番で留学生候補となり、留学先はハーバード。留学先は優秀な順に選ぶことができるそうで、要するにトップの成績でした。それで三木谷さんのすごさを実感したそうです。また、アメリカへ行くにあたり、浩史さんは結婚しました。三木谷さんの奥様の晴子さんは三木谷さんの後輩で平成元年入行のマドンナ、みんなの憧れであり鈴木さんの同期もみんな晴子さんを狙っていたようです。しかしいつのまにか浩史さんがゲットしており、そこでさらに  三木谷さんはすごい人なんだと思ったそうです笑

今回読んだ中で一番印象に残ったエピソードなのですが、仕事だけでなく、男としての幸せというか会社のマドンナとの結婚というある種のマウンティングのようなことを難なくやってのけるのは三木谷さんらしいと思いました。突出していない部署からの異例の成績であり、同期一番で留学を決められたのは後にも先にも浩史さん1人だそうです。

子供の頃から周りの子たちに好かれていたなど、側から自分を認めさせる能力に長けているんだなあと感じました。

一橋大学テニス部の鬼主将になる

今週は87ページから96ページまで読みました。

 

一浪して一橋大学に合格した浩史さんはテニス部に入ります。そしてまたテニスに明け暮れる日々が始まり勉強を疎かにしてしまいます。一橋のテニス部はなんらかのマイナスな出来事があったり、何かを失敗したりすると即坊主という古い感じの体育会系です。

なぜ浩史さんがテニス部に入ったかというと

最初は浩史さんもサークルに入ってアルバイトをしてゆるくやっていくつもりだったようです。

しかしお父さんは浩史さんが安易な学生生活に流されることを心配しこれに反対しました。

そして「中古車を買ってやる」という条件を浩史さんに出します。また、アルバイトをしないとお金の面で厳しいという浩史さんに「テニス部に入ったらこちらもしんどいけどその分だけ仕送りを増やす」とまで言ったそうです。そして浩史さんはテニスに再び打ち込むことになります。またお父さんに誘導されていますね笑

そして浩史さんはテニス部のキャプテンを務めることになったのですが当初テニス部は3部から4部にリーグ落ちし、同好会のようなムードになっていました。それが嫌で浩史さんは練習量を倍くらいに増やしリーグ昇格を目指し鬼主将になります。結局あと一歩のところで昇格はなりませんでしたがすごく充実感のある生活だったそうです。

一つのことに集中すると他が見えなくなる性格がここでも発揮されているなあと思いました。

 

次回からは2章に入っていきます。

不可能に思われた大学受験に挑む

今週は76ページから87ページまでです。

 

テニス漬けの日々を送っていた浩史さんですがやはりワールドチャンピオンになるのは難しいとこれから勉強をはじめますとお父さんに告げます。大学に受かるまではラケットは握らんとまで。

大学に進む決意はしたもの成績は大学そのものに行けるかどうかすら危ういものでした。

しかしある教師に「今から一生研磨やれば、国公立大学でも入れる」と言われ、浩史さんは猛勉強を開始しました。

結果的に一浪して一橋大学に合格します。神戸大学は親父がおるからいかん、東大は兄貴がおるからいかん、一橋に行きたいと高2の進路調査の時に言っていたそうです。三木谷家は子供が3人いてこの時すでにお兄さんとお姉さんは大学へ進学しています。月給32万で仕送り10万×3人。共働きし大変な中、浩史さんの望むようにさせてやってとても良い両親だと思いますた。

浩史さんの恩師である先生がおっしゃるには東大に行ったお兄さんや徳島大学の医学部に行ったお姉さんへのコンプレックスがあったのではないかと、だからこんな落ちこぼれの自分でも勉強ができるようになれるんだと気づいたからがんばれたのだと思います。

今回も三木谷さんらしいなと思うエピソードがあったのですが、

一橋大学には商学部と経済学部があって難易度が毎年交代するそうです。普通はみんな簡単な方を受けるはずですが浩史さんは違いました。お父さんが「今年は商学部が簡単みたいだな」と言うと経済学部を、翌年「今年はお前の念願の経済学部が簡単だな」と言うと商学部をなんらかの理由をつけて受けたそうです。

天邪鬼、ではないかもしれませんが決して自分に甘くなることなく下位の成績から有名な大学に合格するなんてとてもすごいですよね。

アメリカの家庭は大抵そうらしいのですが子供たちが小さい頃に大学を意識的に見せるそうです。そして幼心に憧れを持たせる。旅行ついでにお父さんがキャンパスを見に連れて行ったり

遊びも混ぜて空気に触れさせる、日本でも普通に行われたらいいのにと感じました。

そんなところも浩史さんは親父が仕組んだのではないかと今になって思うそうです。その策略にまんまとはまってしまったような気がすると。

深い愛情があるからこそここまで子供達のために動けるのだなと思います。

息子、浩史はわんぱく小僧だったⅱ

アメリカ生活を終え日本に帰っても浩史さんの勉強嫌いは変わらず廊下に立たされたりチョークを投げられたり、それでも浩史さんはくよくよしないし気にするそぶりも見せなかったみたいです。成績も素行も悪かった浩史さんですが、みんなに愛されていてクラスでも人気者で学級委員にも選ばれたこともあります。
曲がった根性を叩き直してもらえという父親の意向で小学校卒業後は中高一貫の全寮制の学校に入学しました。思い返すと本人は楽しんだと言っているみたいですがここはとても厳しい学校で、週末には帰省するたびに浩史さんは表情が暗くなっていました。タバコを覚えたのもこの時期で、刑務所の気分で楽しんだそうです。
しかしある時当然両親に学校を辞めたいと告げました。そんな浩史さんを両親は一切攻めることなく10分後くらいには電話で父親が理事長に明るく話したそうです。
そして地元の公立中学に編入し、中学2年生のにして、麻雀、競馬、パチンコに熱中するようになります。
それでも浩史さんが完全に道を外さなかったのは両親の厳しさとおおらかさを合わせた教育の仕方のおかげだと思います。浩史さん本人の背中を見ているという一点のみですが、それを浩史さんは感じ取っていたみたいです。
中学の頃は勉強せずずっと遊んでいた浩史さんですがなぜかすごく女子にモテたようで、これは危ない方向に行くかなと良一さんは感じ、浩史さんにテニスを進めました。
狙い通りに熱中しだし、この頃はプロになると思っていたそうです。そのためには高校に行かなければならない。テニスをするために浩史さんは受験勉強をしました。3ヶ月間くらい一夜漬けのように追い込み、名門明石高校に合格しました。
そこでテニス部に入るのですが一年生の頃は球拾いしかさせてもらえず、父に球拾いでテニスが上手くなるかと問いたところ「そら、うまくなるこもはないやろ」と言われ、退部し宝塚テニスクラブに通い、本格的にプロを目指します。
せっかく入った明石高校でも成績は悪く、浩史さんはテニスのプロになるか就職するかしか考えてなかったそうです。ところが父親は食いっぱぐれることのない医者か歯医者にしたかったみたいで、高校2年の大会だ優勝できなかったら大学に行くと約束させます。案の定張り切りすぎてか、足をつって浩史さんは優勝できませんでした。
この二つのエピソードから分かると思いますが浩史さんのお父さんは自分の息子のことをとてもよく考えていて、うまーくコントロールしているし、浩史さんの決断の全てに父親が関わっていると感じました。
浩史さん本人のインパクトが強いですが、本当にすごいのは父親だと改めて感じました。