2018-01-01から1年間の記事一覧

続き

興銀を辞めたときに三木谷さんはソフトバンクの孫正義、TUTAYAの増田宗昭から「うちの会社に来ないか」と誘われていたが丁重に断ったそうです。 95年の11月に退職し、6畳一間の部屋に「クリムゾングループ」というコンサルティング会社を設立しました。起業…

阪神淡路大震災

1995年1月17日阪神淡路大震災がおこりました。浩史さんの両親は無事だったのですが叔父夫婦が亡くなりました。 浩史さんは当時興銀のテレビでニュースを見ていました。東京からすぐに地元神戸に向かい遺体を確認しに公民館へ行ったそうです。そこでたくさん…

俺が頭取になる頃、この銀行はない

ハーバードでMBAを取得し帰国した三木谷さんは本店の企業金融開発部になりM&Aを担当することになりました。 当時は全くの下火で興銀でも「案件なし」の状況が続いていたにもかかわらず、メディア担当の三木谷と上司の2人だけは稼ぎまくっていたそうです。彼…

2章三木谷浩史が選びとって来た道-日本興業銀行へ-

今週から第2章に入っていきます。99ページから108ページまで読みました。 今回は大学卒業後から話が始まります。 浩史さんが卒業したのはバブル絶頂期でした。そして三菱商事と住友銀行に内定をもらいます。この頃は多い者で20社以上の内定をもらうツワモノ…

一橋大学テニス部の鬼主将になる

今週は87ページから96ページまで読みました。 一浪して一橋大学に合格した浩史さんはテニス部に入ります。そしてまたテニスに明け暮れる日々が始まり勉強を疎かにしてしまいます。一橋のテニス部はなんらかのマイナスな出来事があったり、何かを失敗したりす…

不可能に思われた大学受験に挑む

今週は76ページから87ページまでです。 テニス漬けの日々を送っていた浩史さんですがやはりワールドチャンピオンになるのは難しいとこれから勉強をはじめますとお父さんに告げます。大学に受かるまではラケットは握らんとまで。 大学に進む決意はしたもの成…

息子、浩史はわんぱく小僧だったⅱ

アメリカ生活を終え日本に帰っても浩史さんの勉強嫌いは変わらず廊下に立たされたりチョークを投げられたり、それでも浩史さんはくよくよしないし気にするそぶりも見せなかったみたいです。成績も素行も悪かった浩史さんですが、みんなに愛されていてクラス…

息子、浩史はわんぱく小僧だったⅰ

今週は61〜76ページを2回に分ました。 前回母である節子さんは帰国子女だったというお話はしましたが浩史さん自身も小学校2年生の時に父親の仕事の関係で2年間アメリカで暮らしていました。 もともとは父親のみ渡米する予定だったのですが節子さんが一緒にい…

母、節子は戦前の帰国子女だった

今週は57ページから61ページまで読みました。 今まで三木谷さんのお父さんのことは詳しく書かれていましたがここで改めてお母さんの存在が詳しく書かれています。 父である良一さんは留学をして海外に進出していましたがタイトルから分かる通り母の節子そん…

父、三木谷良一の戦後体験

今週は39ページから57ページまで読みました。 今回は三木谷さんの父である良一さんのお話でした。良一さんが生まれ育った時期は日本が戦争の泥沼に落ち込んでいった時期とぴったり重なっています。 戦時中に育ち、終戦後アメリカ軍がやってきました。良一さ…

小学校時代の通信簿

今週は31〜39ページまで読みました。 今回は三木谷さんの子供の頃の成績のお話です。 一橋大学を卒業し、日本興業銀行に就職、同期中最速でハーバード大学に留学し、MBA(経営学修士)を取得。30歳で興銀を退職し、新卒の大学生を従業員にしてたった二人で企業…

一章:三木谷浩史を教育した父と母の考え

今週読んだのは19ページ〜30ページです。 〜初めての鮮やかな記憶〜 三木谷浩史少年の幼い頃の鮮やかな記憶の話から本章は始まるのですがそれはなんとお父さんが浩史少年に向かって切腹をしろというのです。 プロローグには優しい両親と書いてあったのでこの…

プロローグー太陽の子供ー

わたしはゼミの課題で三木谷浩史さんについて書かれた「問題児:三木谷浩史の育ち方」という本を読むことになりました。 今週はプロローグである15ページまで読んでみました。 まずわたし自身三木谷浩史という人物についてあまり知らなかったので少し調べてみ…